シンガポールが金融人材の税優遇へ――香港・日本との「金融ハブ競争」を比較する

目次

2027年の新制度で何が変わるのか。キャリード・インタレスト、個人所得税、ビザから三都市を読み解く

2026年8月、シンガポール金融管理局(MAS)は、シンガポールの資産運用拠点としての競争力をさらに高めるため、新たな政策パッケージを発表した。

今回の発表で注目すべきなのは、単なるファンド向けの税制優遇ではないことである。

ファンド運用サービスに伴う一定の「利益連動型リターン(profit-related returns)」に対する新たな税制措置に加え、ヘッジファンド誘致のための投資プログラム、さらには世界のトップクラスの運用人材を呼び込むための在留資格制度までが組み合わされている。

つまり、シンガポールが狙っているのは単に「世界のお金を集めること」ではない。

そのお金を運用するファンドマネージャーやCIO、投資専門家、そして「投資判断そのもの」をシンガポールに集めることである。

その背景には、香港をはじめとする国際金融センター間の激しい人材獲得競争がある。

そして、この動きを日本と比較すると、これからの「金融ハブ競争」で何が問われるのかが見えてくる。

シンガポールは「資産」だけでなく「運用する人」を集める

シンガポールは、アジアを代表する資産・ウェルスマネジメント拠点として急速に存在感を高めてきた。

プライベートバンク、資産運用会社、ヘッジファンド、プライベートエクイティ、EAM(External Asset Manager)、そしてファミリーオフィス。

これらを支える弁護士、会計士、税務専門家、ファンドアドミニストレーターなども集積している。

これまでシンガポールの金融政策というと、VCC(Variable Capital Company)やファミリーオフィス向けの13O・13Uといった「器」や税制に注目が集まりやすかった。

しかし、今回のMASの政策は一歩先に進んでいる。

焦点が、

「どこに資産を置いてもらうか」から「誰にシンガポールで運用してもらうか」へ

移り始めているのである。

最大の注目点は「利益連動型リターン」の税制

今回の発表の中でも、特に注目されるのが、ファンド運用サービスから生じる一定の「profit-related returns(利益連動型リターン)」に対する新たな税制措置である。

ファンド運用の世界では、ファンドマネージャーが通常の給与やボーナスだけでなく、運用成果に応じた報酬を受け取るケースがある。

プライベートエクイティやベンチャーキャピタルなどでよく知られている「キャリード・インタレスト」も、その代表例である。

今回の制度は、一定の適格ファンドからファンド運用サービスの対価として受け取る利益連動型リターンについて、一定の条件の下で非課税とする方向が示されている。

ここで注意したいのは、シンガポールの個人所得税そのものを引き下げるという話ではないことである。

シンガポールの居住者に対する個人所得税は累進課税で、現在の最高税率は24%である。

今回発表されたのは、通常の給与や一般的なボーナスを非課税にする制度ではなく、資産運用業における特定の利益連動型リターンについて新たな税務上の取り扱いを設けるというものである。

制度はYear of Assessment(YA)2027からの適用が予定されており、具体的な要件は2027年のBudgetで明らかになる予定である。

したがって、2027年2月前後に予定されるBudget 2027は、シンガポールの資産運用業界にとって重要なイベントになりそうだ。

実は香港が先行している

今回のシンガポールの政策を理解するうえで、欠かすことができないのが香港である。

香港ではシンガポールに先行して、2021年から一定の要件を満たすキャリード・インタレストに対する税制優遇を導入してきた。

そして2026年6月には、香港政府が「Inland Revenue (Amendment) (Preferential Tax Regimes for Funds, Family-owned Investment Holding Vehicles and Carried Interest) Bill 2026」を公表した。

改正法案には、

・「ファンド」の定義の拡大
・適格投資対象の拡大
・一定の付随取引に関する5%基準の撤廃
・SPVやファミリー所有SPVに対する免税措置の緩和
・キャリード・インタレスト優遇税制の拡充

などが盛り込まれている。

つまり香港は、単にキャリーの税率を下げるのではなく、ファンド、ファミリーオフィス、投資対象、キャリーを一つの資産・ウェルスマネジメント政策として再設計しようとしているのである。

なお、2026年9月時点では、この改正は法案段階である。そのため「香港では2026年に改正された」と断定するのではなく、「2026年にさらなる制度拡充に向けた法案が提出されている」と理解するのが正確である。

香港も求める「経済的実体」

もっとも、香港の政策も「税率を0%にすれば金融機関が来る」という単純なものではない。

2026年の法案では、ファンド向けの統一的な免税制度に税務報告の仕組みを導入するとともに、ファミリー所有投資ビークルに対する税制優遇と同様の経済的実体(Economic Substance)要件を設ける方向が示されている。

これは非常に重要な変化である。

シンガポールでも、ファミリーオフィスやファンドに関する制度では、人員、支出、投資活動などの「Substance」が重要になっている。

つまり両都市とも、

「資産だけを置いて税制優遇を受ける場所」

ではなく、

「実際に人を置き、投資判断を行い、金融ビジネスを営む場所」

を目指しているのである。

税制だけではないシンガポールの「三点セット」

さらに興味深いのは、シンガポールが税制だけを変更しようとしているわけではないことである。

今回MASは、新たな「Hedge Fund Investment Programme」も発表した。

シンガポールで拠点を設立・拡大する有力なヘッジファンドマネージャーへの資金配分を通じ、ヘッジファンド・エコシステムそのものを強化しようという政策である。

さらに、人材政策も動く。

シンガポールでは世界トップクラスの人材を誘致するための在留資格として「Overseas Networks & Expertise Pass(ONE Pass)」がある。

今回、資産運用業界向けに新しい「Investment Management Track」を導入する方針が示された。

資産運用の世界では、固定給よりも運用成績に連動する報酬の比率が高いファンドマネージャーも少なくない。

そのため、一般的な給与所得だけでは世界トップレベルの投資人材の経済的価値を適切に評価できない場合がある。

今回の制度は、こうした資産運用業界特有の報酬体系も意識した人材誘致策と考えることができる。

つまりシンガポールは、

税制
資金
ビザ・人材

という三つを同時に動かそうとしている。

ここに今回の政策の本当の重要性がある。

では、日本は本当に不利なのか

ここで日本と比較してみたい。

日本の所得税は累進課税で最高税率は45%であり、これに住民税なども加わる。

最高税率だけを比較すれば、シンガポールや香港に比べて高い。

そのため、

「優秀なファンドマネージャーを日本に呼び込むには、税制上不利である」

という議論になりやすい。

しかし、実態はもう少し複雑である。

日本の金融庁は2021年、キャリード・インタレストの税務上の取り扱いを明確化している。

個人のファンドマネージャーが組合員として、出資割合を超えて受け取る組合利益の分配、いわゆるキャリード・インタレストについて、利益配分に経済的合理性が認められる場合には構成員課税の対象となる。

そして、原資となる組合利益が株式譲渡益であれば、個人について20%の分離課税で所得税を計算することになる。

したがって、

「日本ではキャリード・インタレストもすべて給与所得として最高税率で課税される」

という理解は正確ではない。

日本にも国際的なファンドマネージャーを意識した制度整備は存在するのである。

金融人材から見た「シンガポール・香港・日本」

では、実際に世界のファンドマネージャーやCIOの立場から見ると、三つの金融センターにはどのような違いがあるのだろうか。

重要なのは、「個人所得税の最高税率が何%か」だけを比較しないことである。

運用成果に連動した報酬がどのように扱われるのか。

ファンドやファミリーオフィスにどのような制度が用意されているのか。

外国人の高度金融人材が移住しやすい仕組みがあるのか。

これらを一体として見る必要がある。

シンガポール・香港・日本――金融人材から見た金融ハブ比較

シンガポール香港日本
通常の個人所得課税居住者は累進課税、最高24%Salaries Tax。累進税率と標準税率方式所得税最高45%+住民税等
キャリー等YA2027から一定のprofit-related returnsを非課税とする制度を予定適格キャリーに税制優遇。2026年法案で対象拡充へ一定のキャリーは、原資が株式譲渡益の場合20%の分離課税となり得る
2026年の動きMASが新しい資産運用ハブ強化策を発表ファンド・SFO・キャリー税制の拡充法案既存の国際金融センター政策を継続
金融人材政策ONE PassにInvestment Management Trackを導入予定金融・資産運用人材の誘致を継続高度外国人材向け在留制度等
FO・ファンド政策13O・13U、VCC等ファンド・SFO向け優遇制度ファンド参入支援等
次の注目点Budget 2027の制度詳細2026年法案の成立・施行税制・人材・FO政策をどこまで一体化できるか

こうして比較すると、興味深いことが分かる。

日本にもキャリード・インタレストに対する一定の税制上の取り扱いがあり、「日本は何もしていない」わけではない。

それでもシンガポールと香港が際立って見える理由は、個々の税率というよりも、税制、ファンド制度、ファミリーオフィス政策、外国人材政策を「金融ハブ戦略」として一体的に動かしていることにあるのではないだろうか。

「お金」ではなく「人」を取り合う時代へ

今回のMASの発表から見えてくる最も重要な変化は、世界の金融センターの競争軸そのものが変わりつつあることである。

以前であれば、

「どこにファンドを設立するか」

「どこに資産を置くか」

という議論が中心だった。

しかし現在は、

「CIOはどこに住むのか」

「ファンドマネージャーはどこで投資判断をするのか」

「運用チームをどの国に置くのか」

「どこで次世代の投資人材を育てるのか」

というところまで含めた競争になっている。

これはファミリーオフィスにも直接関係する。

ファミリーオフィスという法人や投資ビークルを設立すること自体は、ゴールではない。

優秀な投資人材、プライベートバンク、EAM、弁護士、税務専門家、ファンド管理会社などが周囲に存在し、それらを活用して初めて高度な資産管理が可能になる。

つまり、シンガポールと香港が競っているのはファミリーオフィスの「数」だけではない。

その周囲に形成される金融・法務・税務・投資人材のエコシステムそのものなのである。

「税率が低い国」が勝つとは限らない

もちろん、金融人材が住む国を税率だけで決めるわけではない。

法制度の安定性、金融規制、英語環境、教育、治安、住宅費、生活コスト、家族の暮らしやすさ、空港へのアクセス、そして投資家や金融機関との距離。

こうした要素も大きく影響する。

特にファミリーオフィスの場合、オーナーだけではなく、その家族や次世代がどこで生活するのかという問題もある。

その意味で、金融ハブ競争は「法人税率」や「個人所得税率」の比較だけでは測れない。

しかし、同じように生活環境や金融インフラが整った都市同士が競争するのであれば、最終的に税制や在留制度の差が人材の意思決定を左右する可能性は十分にある。

だからこそ、香港とシンガポールは細かな制度改正を繰り返しているのであろう。

次の注目点はBudget 2027

シンガポールの新しいprofit-related returnsに関する制度については、まだ分からないことも多い。

どのようなファンドが対象になるのか。

どこまでが「profit-related returns」と認められるのか。

キャリード・インタレスト以外の成果連動型報酬がどこまで含まれるのか。

個人、パートナーシップ、法人で要件がどのように異なるのか。

そして、どの程度の人員、支出、投資活動などのSubstanceが求められるのか。

これらについては、Budget 2027で示される詳細を確認する必要がある。

したがって、現時点で「シンガポールがファンドマネージャーの個人所得税を非課税にした」と理解するのは早計である。

一方で、政策の方向性はすでに明確である。

世界の資産運用ビジネスは、資本だけではなく「人材と投資判断」を巡る競争に入っている。

香港が動けば、シンガポールが動く。

シンガポールが動けば、東京を含む他の金融都市も競争力を改めて問われることになる。

税率だけで金融センターの魅力は決まらない。

規制、税制、ビザ、生活環境、教育、法制度、金融インフラ、投資家へのアクセス、そして優秀な人材が集まるエコシステム。

これらを総合して、

「世界の優秀な金融人材に選ばれる国をつくれるか」

が問われている。

2027年に向けたシンガポールの新制度は、アジアの金融ハブ競争が「資産を集める競争」から「人材と投資判断を集める競争」へと次の段階に入ったことを象徴している。

FOPAJでは、Budget 2027で制度の詳細が公表された段階で、対象となる利益連動型リターンの範囲やファミリーオフィス・資産運用実務への影響について、改めて検証したい。

参考資料

  1. Monetary Authority of Singapore (MAS), “MAS Introduces Measures to Strengthen Singapore’s Competitiveness as a Leading Asset Management Hub”, August 2026.
  2. Inland Revenue Authority of Singapore (IRAS), “Individual Income Tax Rates”.
  3. Ministry of Manpower Singapore (MOM), “Overseas Networks & Expertise Pass (ONE Pass)”.
  4. Hong Kong Special Administrative Region Government, “Inland Revenue (Amendment) (Preferential Tax Regimes for Funds, Family-owned Investment Holding Vehicles and Carried Interest) Bill 2026”, June 2026.
  5. Inland Revenue Department, Hong Kong, “Tax Concession for Carried Interest”.
  6. 金融庁「海外投資家等特例業務・移行期間特例業務について/キャリード・インタレストの税務上の取扱い」
  7. 国税庁「所得税の税率」

注記

本稿は、2026年9月時点でシンガポール金融管理局(MAS)、シンガポール内国歳入庁(IRAS)、シンガポール人材開発省(MOM)、香港特別行政区政府、香港税務局、日本の金融庁・国税庁等が一般に公表している情報を基に、ファミリーオフィス実務家協会(FOPAJ)がファミリーオフィスおよび資産運用実務の観点から独自に整理・分析したものである。

シンガポールのprofit-related returnsに関する新制度については、Year of Assessment(YA)2027からの適用が予定されているが、本稿執筆時点では詳細な適用要件は公表されておらず、Budget 2027等で示される今後の公式情報を確認する必要がある。また、香港の2026年の制度拡充についても、本稿執筆時点では法案段階であり、今後の審議・成立・施行等によって内容が変更される可能性がある。

本稿は一般的な情報提供を目的とするものであり、特定の法域、税制、金融商品、投資戦略、ファミリーオフィス・ストラクチャーまたは在留制度の利用を推奨するものではない。具体的な投資、税務、法務、在留資格その他の判断については、最新の法令・公式情報を確認のうえ、それぞれ適切な専門家への確認が必要である。

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